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菊谷英二【平田隆夫とセルスターズ】逝去 死因や経歴は?居酒屋「ハチのムサシ」は何処? 

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平田隆夫とセルスターズ」でボーカル&ギターを務めた菊谷英二さんが77歳で亡くなられていたことが公表され、悲しみの輪が広がっています。

 

ハチのムサシは死んだのさ」の大ヒットで、NHK紅白歌合戦にも出場した昭和の大スターでした。

 

菊谷英二さんの病歴や死因は何だったのでしょうか?

 

また、経営されていたライブ居酒屋「ハチのムサシ」についても調べてみました。

 

◆名前:菊谷 英二(きくたに えいじ)

◆本名:菊谷 英紀

◆生年月日:1942年10月1日

◆没年月日:2020年4月27日(77歳没)

◆担当:ギター、ボーカル

 

ザ・ルビーズ時代

菊谷英二さんは1967年、グループサウンズ「ザ・ルビーズ」の一員として「さよなら、ナタリー」でデビューしました。

 

ザ・ルビーズは1962年に結成され、デビュー前は横須賀のナイトクラブ「ビー・ハイブ」で専属出演しており、菊谷英二さんは当時としては

珍しい左利きのギターリスト&リードボーカルとして活躍していたのです。

 

1968年3月10日、武道館にファンを招いて開催された「タイガース新曲発表会」の前座を務めたり、デビューから3枚のシングルをリリース

しましたが、同年に解散しています。

 

●さよなら、ナタリー/ゆるしておくれ(1967年4月)

●渚のルビー/青い瞳のエミー(1967年9月)

●恋のピストル/あなたに抱かれて死にたい(1968年2月)

 

平田隆夫とセルスターズ時代

ザ・ルビーズ解散後、1968年に武蔵野音楽大学を卒業した平田隆夫さんらと共に「平田隆夫とセルスターズ」を結成しました。

 

そして、1971年8月に「悪魔がにくい」でデビューし、オリコンチャートにおいて1972年1月より5週連続1位を記録する

など、累計100万枚を超えるヒット作となっています。

 

アニメ・天才バカボン第52話「パパは男の中の男なのだ」の中で、町内歌合戦でバカボンのパパの相手・一郎が「悪魔がにくい」を歌い有名になりました。

 

 

1982年2月に発売した「ハチのムサシは死んだのさ」も大ヒットし、NHK紅白歌合戦に初出場を果たしています。

 

 

「ハチのムサシは死んだのさ」は歌詞を「ハエ」に変えて殺虫剤のコマーシャルソングとしても使われました。

 

太陽に向かって行く蜂に見立てた反戦フォーク歌詞でもあったのです。

 

 

 

1974年に2人の女性ボーカルが脱退し、セシリアが加入しました。

 

5人編成で「生きながらブルースに葬られ」などをリリースしましたが、1977年に解散しています。

 

菊谷英二の死因や病歴は?

菊谷英二さんは、4月27日の昼頃、経営するライブ居酒屋「ハチのムサシ」の玄関先で倒れている所を授業員に発見されました。

 

既に息はなく、搬送先の病院で死亡が確認されましたが、その後の調べで死亡日時は同日の午前1時頃だったそうです。

 

 

死因は虚血性心疾患でした。

 

元々、高血圧の持病があり薬は服用していましたが、最近の体調は良かっただけに非常に残念です。

 

 

居酒屋「ハチのムサシ」はどこにある?

菊谷英二さんはセルスターズ解散後、1993年に平田隆夫さんと共にライブ居酒屋「ハチのムサシ」を開店しました。

 

平田隆夫さんが2011年6月に亡くなっからは、菊谷英二さんが経営者となり、店を拠点に音楽活動を行っていたのです。

 

「ハチのムサシ」

住所:〒332-0021 埼玉県川口市西川口1丁目15-12 グローバルハイツB1

電話番号:048-255-2111

営業時間:昼の部(火~金)11:00~17:00 夜の部19:00~24:00

定休日:日曜日

 

劇場クラスの音楽設備と広いステージが自慢のお店です

 

 

 

ツイッターの声

「ハチのムサシは死んだのさ」学生時代に歌っていた方が多いようです。

 

 

まとめ

「平田隆夫とセルスターズ」でボーカル&ギターを務めた菊谷英二さんが77歳で亡くなられました。

 

昭和の偉大なミュージシャンの訃報に悲しみの輪が広がっています。

 

心よりご冥福をお祈り致します。